仏さまに限らず、食べ物やお花を「お供え」するということは馴染み深いことでしょう。その「お供え」とは私から他に差し向けることだと言えます。
しかし、浄土真宗では、仏さまに御仏飯をさしあげるとき「備(そな)える」と表現することがあります。「備え」には、予備、備品、災害に備えるといった意味から連想される通り、前もってそなえる、自分自身の心持ちと行動がそこにあると言えるでしょう。
故人様、そして仏さまへ私が「お供え」する際、自分自身は静かに手を合わせる準備がととのっているでしょうか。どうしても、お供え物自体に目がいきがちですが、実は自分自身の備えこそが大事なのではないしょうか。そして、その自分自身の備えがあってこそ、はじめて故人様と仏さまへの「お供え」となるのではないでしょうか。合掌【了】