真宗大谷派では、お線香を立てずに横に寝かせて用います。「なぜでしょう」と尋ねられることがあります。これには明確な答えというものはありませんが、諸説をご紹介いたします。
1つは、お線香の香りがどの方向にも等しく広がることに、すべてのものを選ばず嫌わず見捨てることのない阿弥陀仏の大悲、平等さを重ねています。
そして、もう1つの由来がお線香の歴史にあります。もともと日本に伝わったお香は粉状で、香炉に盛って用いるものでした。やがて扱いやすいように棒状に固められ「線香」と呼ばれるようになりましたが、その使い方は粉状のお香を横に敷く形の名残をとどめているのです。
ですから、真宗の作法は単に特別な流儀というよりも、古来の香のあり方を受け継いでいるともいえます。1本のお線香に、香りの広がりと歴史の重なりを思うとき、私たちは仏法に包まれて生きる自らの姿をしみじみと味わうことができるでしょう。
香りは仏さまの世界を表現するお飾りの1つなのです。合掌【了】
仏さまに限らず、食べ物やお花を「お供え」するということは馴染み深いことでしょう。その「お供え」とは私から他に差し向けることだと言えます。
しかし、浄土真宗では、仏さまに御仏飯をさしあげるとき「備(そな)える」と表現することがあります。「備え」には、予備、備品、災害に備えるといった意味から連想される通り、前もってそなえる、自分自身の心持ちと行動がそこにあると言えるでしょう。
故人様、そして仏さまへ私が「お供え」する際、自分自身は静かに手を合わせる準備がととのっているでしょうか。どうしても、お供え物自体に目がいきがちですが、実は自分自身の備えこそが大事なのではないしょうか。そして、その自分自身の備えがあってこそ、はじめて故人様と仏さまへの「お供え」となるのではないでしょうか。合掌【了】